2018年12月4日火曜日

ミャンマーのローカルな暮らしとオススメ両替所!


アウン=サン=スーチーさんが政権に戻りミャンマーが”表面上”の民主化された2016年からは外国人旅行者の旅がさらに簡単になった!つまり行ける地域が広がった!!
最初に訪れた2009年頃のミャンマーはヤンゴンやマンダレー、バガンなどの一部の観光地のみ旅行者に開かれており、ボランティアで滞在していたNGO病院のあるサガイン地域に入るにも特別な許可がいくつも必要だった。空港からサガインの病院までスタッフが送迎してくれたのだけど、車の前後には軍事政府か警察の車がずっとくっ付いていたし、写真も簡単に取れなかった。活動に支障がでたらいけないので歩き回るのも自粛して、本当に動き回れたのは病院の周辺だけだった。
そんなサガインにも今は普通に取り合いトラックや原付、ヒッチハイクでも入れたほど緩くなった! 本当は今もサガイン地区など政府が監視下に置きたい地域に入るときは届け出が必要となってるけど古い時の名残で殆ど形骸化してて誰も気にしていない。
だけど今も昔もミャンマー・ヤンゴンを初めて訪れた時に必ず行きたい観光スポットとしてオススメしたいのが、「サークルトレイン」!!
ヤンゴン市内をグルっと楕円形に回って戻ってくる3−4時間の旅。
ヤンゴンの山手線!!
チケットはなんと1ドル!なぜか時々200チャット!!!(約25円)驚!!
ただ日本の山手線だと思って乗って見たら大間違い。
ドアも窓も風スースーで、写真のように各駅で野菜やらニワトリやらたくさん抱えたおばさん達で大賑わい!!アイスやスナックを売りに来る売り子も乗っては降りての繰り返し。


駅が近くなると線路沿いにぎっしりマーケットが並んでいるのが見れて楽しい!
こんな風に窓から身を投げ出しても誰も怒らないけど、時々木や看板が目の前をかすめていくから要注意!!首や腕が吹っ飛びます。まぁ超スローリーだからよく気をつけていれば大丈夫!

サークルトレインは一日8本前後。乗り降り自由。飛び降りも自由
ネットに上がってる時刻表はあてにならないので直接ヤンゴン中央駅にいくとベター!
サークルトレインとかサークルレイルウェイどこ?って聞くとだいたいみんな教えてくれて、ホームで切符を買って次の電車に飛び乗る。確か6番線
でも実はヤンゴン中央駅以外の小さな駅で乗る場合切符買わずに飛び乗れてしまう!車内も降りるときも検札なし。ただ25円の切符なのであまりお得感なし(笑



写真はヤンゴン中心地にあるスーレーバゴダ
ここからアウンミンガラーバスターミナルや空港行きの安いミニバンが出てる。

ミャンマーで注意したいのが闇両替!!!!
ここ周辺特に!exchange?って話しかけて時に追っかけて来る野郎ども。
絶対両替してはいけない!!
正規の両替レートよりもすごく良いレートを言って気を引かせるが、両替のやり取りの途中で何枚も札を抜かれたりすり替えられたりして毎日のように旅行者が被害に遭ってる。

ミャンマー、ヤンゴンでの日本円の両替はホワイトベイマネーチェンジャー(whitebay money changer)またはユニティマネーチェンジャー(Unity money changer)が安心ベストレートでオススメ!
しかもホワイトベイは交渉でさらに少しレートよくしてくれる
金額にもよるけど、孤児院への寄付に23万円の両替をしたところかなりおまけしてくれた。日本企業の駐在員も使ってます。



ヤンゴン オススメ両替所!

Whitebay money changer
https://goo.gl/maps/84XcZZXbmPN2 (地図)

Unity money changer
https://goo.gl/maps/Crp5AAPeHwp (地図)



ミャンマーの伝統といえば・・

タナカ!Tanaka!!!田中!!!?(笑)
タナカという木の根っこを擦って水と混ぜて顔に塗る。
魔除け、化粧、日焼け止め、ファッションと意味は多様に!
男女問わず塗ったくり。時々可愛い模様や絵を描く人も!

ロンジー!
ロンジーとは筒状の巻きスカートのこと。
こちらも男女問わず。職業問わずみんな身につけている。
ただ巻き方を怠るとストンと落ちてパンツ丸見えに
しょっちゅうおじさんが路上で巻き直している。


黄金の寺院、シュエダゴンバゴダや、サークルトレイン市場など一通り周って暇ができたら行きたいところが、
ヤンゴン市内の南部を流れるヤンゴン川。を渡った先のミャンマーの素朴な生活の見れる村!
ここを10−15分おきに対岸へ渡してくれるフェリーに乗っていくとDALAという村に出る。この港もフェリーも日本の無償支援で作られており、日本人はパスポートを見せればなんと、無料!!! 自転車も持ち込み無料。
このDALAという村は忙しいヤンゴン市内と全く違ってゆっくりとした田舎風景が見れる。こんなにも格差があるのかというほどの違いがあり、コンクリートとアスファルトの町から一気に竹でできた家と未舗装の道に変わる。



ミャンマーの北部も東部も田舎の風景はだいたいこんな感じだけれど、やはりヤンゴンのすぐ隣とあってサイカー(自転車タクシー)やトゥクトゥクの客引きが港で待ち伏せしている!
それを笑顔振り払って、進もう
徒歩で2時間もあれば全然回れる村だから!ヤンゴンでは見られない素敵な笑顔に会える!

ちなみにサイカーも値段ふっかけて来るけど言い値で3ドルでも5ドルにでもなる。それでいてスネーク寺院や綺麗なお寺や湖に村のガイド付きで周ってくれるから試しても良いかも。



少林サッカーなのか!!!!?



これはまだ北西部、ラカインを中心に住んでいるムスリムの少数民族ロヒンギャが大虐殺に遭い隣国バングラデシュに70万人の難民が避難するの写真。ヤンゴン市内。
ヤンゴン市内でも普通にムスリムの特別な日には何百人と群れを成してお祭り、儀式、葬式、などが行えていた。ラカイン族も当時はまだ少しでも平穏な生活を送っていた。
今はきっととてもじゃないけどこんな行列をなして市内を歩くのは無理だろうな。。


大きな声で何か叫びながら町を歩く男たちの向かう先はモスク
モスクに入れるのは男性のみ。女性は外で待っている。
ここからが壮絶な祈りの始まり。
カメラを持って中に入った途端熱気に圧倒された。
皆同じ動き、左右に体を揺らしながら拳をあげて全力で自分の胸を叩き続ける!
声がだんだんと大きくなり、体を殴る音がとても痛々しい。
これが延々何時間も続く!!!から僕はギブアップして帰ってきた。。


ミャンマーはこれまで訪れた六十数ヶ国の国の中で一番好きな国
また次回以降のどこかの記事で有名なコテコテの観光地バガンやゴールデンロックのチャイティーヨーやポッパ山から普通旅行者は立ち入らないような北部カチン族自治区のミッチーナ以北からシャン族自治区まで書きたいと思います。

最後に・・
闇両替は絶対ダメ!!

2018年12月1日土曜日

ミャンマーの孤児院 -1525人の孤児達-


 行動を共にしていたレスキュー隊の隊長さん達は先に国に帰った
よし!マンダレーに残ったチェンレイと僕は少し町歩きをすることにした!
ずっと緊張・緊迫した日々ばかり続いていたので一気に身体と心の力が抜けるように疲れが出て来たのであまり遠くまでは歩けなかった。。



訪れたのは街の中心地にあるセントラルマーケットマンダレー城
金ピカのヤンゴンと違って何か時代劇のセットみたいな建物だった。観光客が珍しいのか城内で色んな人が話しかけて来た。その中の一人、すごく細い女の子が
あのー日本人ですか?
上手な日本語で聞いて来た。語学学校で日本語を勉強しているという。
家族と一緒に城内を案内してもらいながら色々現在のミャンマーについて話した。




公益組織と一緒にミャンマーに駆けつけたはいいがあっけなく時間ができてしまったこと、何か力になれる機会を探しているということを伝えると、彼女はミャンマー北部の少数民族政府との長年にわたる紛争による被害について教えてくれた。
その紛争他エイズ孤児貧困暴力人身売買などの理由によって孤児になってしまった子供達の話も。



ここにいても何が出来るかわからない。でも行けば必ずやるべき事は見つかるという事は知っていた。彼女から何軒かの孤児院の情報を、それも支援が届いていないような孤立した孤児院を調べて教えてもらった。しかも明後日家族の車で山々を越えて孤児院まで連れて行ってくれるというのだ!優しい!!
今日明日まだ時間があったので日本語学校を訪れて生徒さん達と色々日本やミャンマーのことを話して来た。



まず最初に案内され訪れたのが冒頭からの写真、なんと1525人もいるという仏教系の孤児院。ここは男の子だけの施設だけど女の子は別の施設にいるらしい。




僕らが到着するなり偉いお坊さん子供達を全員集めてくれた。壁に掛かるいくつものポスターのような色んなメッセージが書かれたものを説明してくれた。どこの団体が何を支援してくれたーようなことが書かれている。ここはマンダレー郊外でも有名な孤児院らしく、台湾、シンガポール、日本は大阪や九州の団体などが支援してくれていて、この隣の建物にはJICAも入って新しい宿舎を建設していた。また仏教系とだけあって仏教政府ともお墨付き支援金やら色んな待遇があるようだった。


広大な敷地内にはコンピュータールームも整備され、ホットシャワーのボイラーもある。
写真のように昼食を大釜で調理している光景も見させてもらったが野菜に大盛りご飯が食べられるようだった。
これがミャンマー。イスラム系やキリスト系の孤児院や難民キャンプにはこんな施設経済力ない全て仏教と政府側についた人々優位で成り立っている。

頑張って勉強している教室を覗くと可愛い修行僧も犬も一緒にお昼寝している。僕が小学校から大学までよく眠るから先生にチョーク思いっきし投げられたのと変わらない。一緒にするなって(笑)!!



きっと日本の団体が教えてくれたのであろう「幸せなら手を叩こう」を全員で合唱してくれた。

嬉しかった。そして安心した。親と一緒に暮らせない悲しい事情があってここに来たのだけれど、この施設なら少なくとも生きていける。だから安心した。

案内してくれる彼女は次の施設も規模はここまでではないが大きな仏教系に連れて行ってくれるつもりのようだった。ここには僕らは必要ない、もっともっと誰にも目に掛けされない、経済的にも衛生的にも危機に陥っているような施設があるはずだ。そう説明すると、彼女は一箇所思い当たる施設があるという。そこはマンダレーから車で3時間西に行ったメイミョーという町。




案内されたのはキリスト教の教会に併設された孤児院100人程の子供達が暮らしている。先ほどの1500人超えに圧倒された後のこれはすごい静けさ
と思ったら元気よく子供達が遊んでいて囲まれた!

北部のカチン族自治区と政府軍との紛争と貧困によって各地に難民キャンプができたが安全に子供達に教育を受けさせるためにミャンマー第二の都市マンダレーに十数年前に地元キリスト教徒とアメリカの慈善家からの寄付で教会と孤児院が作られた。




そう、ミャンマーの観光地はどこもお坊さんだらけの仏教なイメージがあるけれど、北西部はイスラム、ヒンドゥー、北東部はキリスト教の少数民族が暮らしている。これを仏教中央政府は面白く思わず、昔から軍事力で弾圧して来た。ロヒンギャやカチン族への虐殺、村の焼き討ち、無差別な空爆は今も続いている。



施設を管理している大人は皆カチン族、ディレクターのティンコーさんとその奥さんのカイタンさんから詳しく話を聞いた。
ここは政府からの支援はゼロで、特定の団体からの定期的な寄付などもない。全てキリスト教の彼らだけで寄付を集め合ってなんとか運営している。100人の子供達の食費はなんと一日三食全員分合わせて9ドル(1000円程)。。肉は高価なので週一回土曜日しか食べられない。朝食は米のとぎ汁に少し豆を入れただけのスープを毎朝食べる。穴の空いた服でも大きい子から小さい子へ着まわしている。シャワーはなく大きな水瓶に冷水を溜めたのを洗面器で汲んで体を洗う。標高1500m近い山の中の町、夜間は冷えるがもちろん暖房も扇風機もない。それでも皆助け合って生きている!!毎日神様にお祈りしながら、毎朝毎晩感謝して声を合わせて歌い、聖書を読んで、ちゃんと遅くまで勉強も頑張っている!もう応援せざるにはいられないよ、チェンレイ!!ここにしよう!!



この時の滞在では日本語の授業、中国語の授業、保健衛生の授業、健康チェックの他に写真のようにアルミ缶を改造してアルコールストーブを作ったり、木と針金、ヘアピンでカリンバ(親指ピアノ)などを一緒に作った!



材料費ゼロ!みんなでワイワイ楽しく作ったストーブは・・



アルコールを入れるとこんなに綺麗な炎を上げた!!感動!してわーーーーーーってなった!!



薬局で1L40円ほどで買える消毒用アルコールをほんの少し、30ml程入れるだけで1Lのお湯が沸騰する優れもの!!(さあみんなで作ってみようー!)



そして僕のお馴染み、沖縄で作り方を習ったカリンバ。特に女の子は嬉しそうに調律して綺麗な音を流していた!



トラックを貸し切ってみんな荷台にギューギューになって、色んなところに遠足に行った!釣れなかったけど湖に釣りにも行った!みんなパンツいっちょで泳ぐ泳ぐ、上手上手!!


木の釣り竿と便に糸を巻きつけて釣りをする

実はこの記事を書いているのは2018年の今まさに年が暮れそうな寒いクロアチア。
この時の子供達との出会いからもう7年。
毎年のようにミャンマーに戻ってはみんなに会いに行っている。去年は二回訪れた。


手作りカルタを作って日本語を勉強。カンボジアでやった経験をここでも。
行くまでは、会うまでは何をすべきかなんてわからない
百聞は一見にしかず。事実毎日目の回るような忙しさが待っている。
子供達100人は生まれた時にはそれぞれお父さんお母さんがいた
その両親200人分に代わることができるのか?そんなわけがない

ただ200の仕事を1つでも2つでもやるのか、全く関心も持たず何もしないかの違いは歴然。
たとえ僕ら外から来た一人二人の外国人でも。





この7年間、子供達の成長を楽しみに見ながら色んな思い出を一緒に作って来た。

最初に訪れた時、二段ベッドに敷かれた子供達の毛布やシーツが湿気って汚れてすごいことになっていた。まず5日間程かけてみんなで全部足でフミフミ洗濯して、マットレスも太陽に当ててよく叩いた。よーホコリ出た。最後に洗ったのは半年前だったそう!!育ち盛りの走り回る子供達の布団は重く黒くなっていた。当時旅仲間の看護師とも一緒に訪れたこともあってベッド周りの衛生環境作りと子供達の清潔へ意識向上は無視できなかった。大切!!

もっと社会に存在を広く知ってもらう為に孤児院のブログも開設

また孤児院のロゴSMOCとイラストの入ったTシャツとポロシャツを作成し当時滞在していた中国で大学の講演会ネットで販売、またweiboのフォロワーさん達も個人的にたくさん買いに来てくれて、全て孤児院の運営費に当てた

毎月出演しているNHKラジオの番組で何度かこの孤児院の話をして、聞いてくださった方々からの寄付と友人や家族、元職場の同僚達から集めた寄付で、
新しい男女シャワールームの建設、食料が底を打つ寸前で半年分の米を寄付、文房具・体育スポーツ用品数年分を寄付、自転車6台を修理。

日本から人形劇「桃太郎劇団」を招待して上演していただくと、子供達大はしゃぎ!!

プロジェクターを持参してお祈り後、寝る前にみんなで映画を見たけど必ず消灯時間までに一本終わったことがなかった^^;;

僕らは生まれてこれまで毎年の誕生日はだいたい親に祝ってもらい、小さな頃にもらうプレゼントは嬉しかった。ただ、
誕生日が来てもこの子達にはそれがなかった。だから、
毎月誕生日に当たる子供達全員にプレゼントが渡るよう
「誕生日プレゼント基金」を作り、月一回の集団誕生日会で一人当たり定額の寄付から購入した希望のプレゼントを渡している。これは全額僕が負担^-^




豪華景品をかけた卓球トーナメント戦バドミントントーナメント戦は誰もが燃えた!!

サンタさんの来ないクリスマスなんて辛いよ。
weiboやSNSで呼びかけてクリスマスに合わせて中国や日本からたくさんのクリスマスレターやプレゼントが子供達に届いた。
・・そのお礼に書いた300通以上の手紙が送り終わるのに3ヶ月以上かかったけど!!^-^
ほぼ毎日書いてはどこかの国の郵便局で出してたの覚えてる・・



まだ生まれてこれまで一度も見たことのない子供ばかりで、どうにかして海に連れて行きたかった。でも全員分の遠い海までの移動費と宿や食事代がこれまでにない高額で、また食料危機があった為に緊急度が高い生活の方を優先して海旅行はまだ実現していない!クラウドファンディングも計画段階まで行ったが延期に。


本当みんな仲が良い!!
絶対いつか実行したい。






ささっと書いてしまったけど、この7年間のそれぞれのストーリーはまたいつかこの先の記事で(^-^)

チェーズーティンバーレー(ありがとう)!!

2018年11月18日日曜日

日本と中国が協力し第三国の支援に。


無事に中国のレスキューチームと共にミャンマーのマンダレーに到着!
地震による被災地はここから数十キロ北に移動した場所。

初日はホテルに着いたあと、半々に別れて、ミャンマーの中国大使館の職員とミーティング、残りは待機した。ミーティングはもちろん中国流、豪華な食事をのせた円卓を囲んだ接待が始まる。でもこれがとても重要な意味を持つ。軍事政権から変わったとはいえ、まだ外国人は被災地中心部への立ち入りは禁止されているのだ。
どこかで聞いた事あるな、そう、中国と同じなんだね・・。
そこで大使館を味方につけてミャンマー政府との交渉を進めた。

・・隊長達、ちょっと肩を落として帰って来た。
やはり中心地には行けないようだ。ミャンマーは平常時ですらまだ外国人立ち入り禁止地域があちこちにある。
しかし今回、中心部周辺の被災地域には行ける許可が下りた。さすが、値段交渉始めこういう交渉事には強い。値段交渉もボッタクリも日常生活にない日本人はこの辺に弱い・・。世界一安全な国は、外国に行くと世界一のカモになってしまうのは皮肉な話。


ミャンマー地震6.jpeg
 夜道を歩き廻って安くて美味しそうな店に入る。
カレーを注文したらディップ野菜は食べ放題!
ディップのソースがカニミソとナンプラーを混ぜたような味で、とっても美味しかった(涙)

中国と同じく、こんなにも店員必要かな・・ってくらい見渡す限りウェイターだらけ。中学生くらいの若い男の子も働いている。みんなイケメン!ニコニコの笑顔で、照れながら注文した料理を運んで来てくれる男の子達がとっても可愛い。中国には申し訳ないけど、2年ぶりくらいにレストランでこんなに普通の優しいサービスを受けた。ミャンマーではあちこちで見られる顔に塗る木の根から出来たクリーム「タナカ」も顔に塗ってくれた。なぜかマニキュアまで・・。フレンドリーでとても礼儀正しくて、この時もうすでにミャンマーから離れられない予感がしてしまった。

食事を終えた頃、店の入り口にずっと赤ん坊を抱えて立っている女性に気づいた。食事中ずっとここにいたのだという。この街に住む外国人も時々訪れる地元で人気のレストラン、生活難の方達が集まりやすい。僕は店員に通訳してもらいながら彼女に食事はまだか聞いた。彼女は食べたと返事をし、子どもを強く抱きしめた。子どもの父親は子どもを作ったきり逃げてしまい、消息不明。小さな子がいるから働けず、物乞いをしているという。
僕らはお金はあげられないけど、何か欲しいものがあれば言って下さい。いつもお金しかもらわない彼女はためらっていた。僕と友達は彼女と一緒にスーパーへ行き、彼女が指差した粉ミルクを赤ちゃんに買った。
ミャンマー初日、喜びと切なさ両方を感じた一日だった。


ミャンマー地震7.jpeg 
 二日目、三日目は現地の中国語通訳付きの車に乗り込み、市街地と被災地を往復した。途中、川に寄った時地震により半分落ちた橋を見た。丈夫そうな鉄骨の橋が半分に折れている。余震も毎日続いており、半壊の建物には注意しなければならない。
被災者は特定の場所で支援物資配給されたり政府からの支持を得る。そのうちの一カ所、寺院が管理する広場にこの日は訪れた。中国から持って来た医薬品や応急処置セット、少ないが生活物資などを僧侶に託した。

同じ頃、米などの食料配布も重なり手伝う。僧侶が拡声器でリストの家族の名前を呼んでいく。混乱もなく、順番を待つ人々は落ち着いている。これもまた、今「ミャンマー」に来ているのだということを感じさせる。軍服を着た政府の偉い方達が車に乗って挨拶に来た。笑顔で写真を撮り少し話しただけの外交辞令に終わるが、被災者に向けて挨拶も労いも見られなかったのが何となく腑に落ちなかった。


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トランシーバー、ヘルメットを身につけ救助道具一式持って飛んで来たにも関わらず、政府という壁が高く、思うような活動成果が得られないまま帰国までの時間がせまる。
レスキュー隊とはいえ、それぞれ家庭と仕事がある仲間達、中国からでもできる援助のニーズを最後に調査して、帰国の日を迎えた。


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 せっかく来たのに、必要とされる場所、人々に会い切れていない。団体として動くゆえ国際法規や許可申請などに縛られてしまうのはしかたがない。ではこれまでの僕らしく、個人流で動こうじゃないか。
僕とチェンレイは滞在VISAギリギリまでミャンマーに残ることにした。

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それから三週間、1525人の孤児が暮らす仏教孤児院や、マンダレーから北に数十キロのピン・オー・リンという街にある小さく貧しくも助け合い温かなキリスト教孤児院で過ごすことになるが、そのストーリーはまた次回・・。

 動画:ミャンマー地震支援 56秒(You Tube)
 動画:香港鳳凰TV ドキュメンタリー 一部
新聞:雲南信息報:河原启一郎 "我只是个普通志愿者"
(訳:私はただのボランティアです。)