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2019年1月4日金曜日

次回以降の内容は・・!!



いつも読んで頂きありがとうございます。

ボランティアをしながらの自転車世界旅11年目!
60ヶ国以上を旅し時には住みながら、現在進行中!

今後まもなく更新される内容は、
・中国のレスキューチームと共に、ミャンマー北部で起こった地震の支援へ。(更新済!)
・ミャンマーの孤児院で住み込みのボランティアとそこで過ごした早いクリスマス。(更新済!)
・ミャンマーの旅。(更新済!)
・北京での講演会、TED等のために一時中国へ。
・クリスマスイブから年末までタイの離島で毎日テント生活。
・タイの旅
・シアヌクビル(カンボジア)で過ごした新年。
・プノンペン(カンボジア)の幼稚園で泊まり込みボランティア先生。
・カンボジア、ローカルライフの旅。
・陸路ラオス国境越え、メコン河に浮かぶ島、ドンデッドでハンモック生活。
・ラオスの旅。
・式典に招待され再び中国・天津へ
・北京上海 上海で老人と再会も政府に家を破壊される
・2月中国は正月休み、2月頭に僕も一時帰国。新しいビザの取得と壊れた装備の修理。
・山梨・京都で講演会
・フェリーで再び上海へ。
・寧波でTEDスピーチ
・上海復旦大学で講演会。
・広西省南寧へ、NGO支援直前に政府に拒否される。
・広西・那佐の小学校にてボランティア・支援物資を届ける。
・四川地震発生、政府と民間の間での混乱
・雲南省の秘境、独龍江にて日本NGOが支援する小学校へ
・再び雲南地震の被災地へ スポンサー日産の協力の元

・雲南省怒江福貢の無国籍の難民数万人が暮らす 地域で生活
・無国籍難民の支援開始、中国全土からボランティアと6トンの衣類などの支援物資収集・配布
・西安の自転車に戻り、青海省南シルクロードを新疆ウイグル地区へ向けて走る。標高3500mの荒野へ。
・タクラマカン砂漠縦断達成 - 砂と乾きの土地
・北新疆ウイグル地区 - 中国の中のウイグル人の実際
・カザフスタン - 国境を越えるだけでこの違い
・キルギスタン - マイナス15度、他の惑星を見ている感覚
・弟結婚式、廈門大学・東京多摩大学講演会
・ウズベキスタン - なぜ中国人は世界中でこんなにも嫌悪されるのか
・トルクメニスタン - 行く価値もない国
・イラン - 人種差別と間違ったフレンドリー
・アゼルバイジャン - 春夏のコーカサスを逃したら何もない
・アルメニア - ひとりぼっちの国
・グルジア - ワイン・ビール天国
・トルコ - クルドと難民とプライドの地
・ギリシャ - ギリシャの意地
・ブルガリア - ヨーグルトだけじゃない、海面温泉!
・ルーマニア - ジプシーと犬の群
・モルドバ - ヨーロッパ最貧国と呼ばれる国
・ウクライナ - 紛争と軍事病院でのボランティア
・オーストラリア - 資金作り、7つの仕事を掛け持ち
・ミャンマー - 孤児院の支援
・ウクライナ - 自転車旅再スタート
・ポーランド - 暗い歴史の後に
・ドイツ - 人の質の高さ
・チェコ - 日本国旗が欠かせない
・オーストリア - 初日からワインセラーで眠る
・スロバキア - ウクライナに次ぐ悪路
・ハンガリー - プーアル茶温泉
・ルーマニア - 2年ぶりのルーマニア
・セルビア - 嫌われた国
・クロアチア - 最強の風ブラで吹っ飛ぶ
・ボスニアヘルツェゴビナ - 美しく治安の悪い国
・モンテネグロ - 山の人々
・アルバニア - 日本語学校にて講演
・マケドニア- TOKIOの長瀬激似の彼の家に泊まる
・コソボ- オスマン帝国文化が残る土地、トルコ人からのセクハラ
・イタリア- 人も自然も物価も優しい南イタリア
・ギリシャ- 違法移民と警察の追っかけっこ
・イスラエル- ミサイル落ちてくるわ銃口向けられるわ
・パレスチナ- 日新月社(赤十字)でボランティア
・エジプト- 楽園ダハブで魚になる、毎日警察の護衛付き
・スーダン- 果てしないサハラ砂漠で見つけた一番好きな国かも
・エチオピア- 旅人の世界3大うざい国ランキングにも入れない最凶国家
・エチオピア- 内戦とコロナで治安悪化。強盗に遭う。
・東南アジア-アフリカから避難するも、新型コロナ襲来、ロックダウン生活
・日本にてコロナ患者対応の日々



・ウズベキスタンビザ情報
・トルクメニスタンビザ情報
・カザフスタンビザ情報
・キルギスタンビザ情報
・イランビザ情報
・アゼルバイジャンビザ情報
・アルメニアビザ情報
・中国にて【十大感動】、『影響を与えた人物100人』のひとりに選ばれる。




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助け合い×自転車世界一周旅

kei (河原啓一郎)



2018年12月1日土曜日

ミャンマーの孤児院 -1525人の孤児達-


 行動を共にしていたレスキュー隊の隊長さん達は先に国に帰った
よし!マンダレーに残ったチェンレイと僕は少し町歩きをすることにした!
ずっと緊張・緊迫した日々ばかり続いていたので一気に身体と心の力が抜けるように疲れが出て来たのであまり遠くまでは歩けなかった。。



訪れたのは街の中心地にあるセントラルマーケットマンダレー城
金ピカのヤンゴンと違って何か時代劇のセットみたいな建物だった。観光客が珍しいのか城内で色んな人が話しかけて来た。その中の一人、すごく細い女の子が
あのー日本人ですか?
上手な日本語で聞いて来た。語学学校で日本語を勉強しているという。
家族と一緒に城内を案内してもらいながら色々現在のミャンマーについて話した。




公益組織と一緒にミャンマーに駆けつけたはいいがあっけなく時間ができてしまったこと、何か力になれる機会を探しているということを伝えると、彼女はミャンマー北部の少数民族政府との長年にわたる紛争による被害について教えてくれた。
その紛争他エイズ孤児貧困暴力人身売買などの理由によって孤児になってしまった子供達の話も。



ここにいても何が出来るかわからない。でも行けば必ずやるべき事は見つかるという事は知っていた。彼女から何軒かの孤児院の情報を、それも支援が届いていないような孤立した孤児院を調べて教えてもらった。しかも明後日家族の車で山々を越えて孤児院まで連れて行ってくれるというのだ!優しい!!
今日明日まだ時間があったので日本語学校を訪れて生徒さん達と色々日本やミャンマーのことを話して来た。



まず最初に案内され訪れたのが冒頭からの写真、なんと1525人もいるという仏教系の孤児院。ここは男の子だけの施設だけど女の子は別の施設にいるらしい。




僕らが到着するなり偉いお坊さん子供達を全員集めてくれた。壁に掛かるいくつものポスターのような色んなメッセージが書かれたものを説明してくれた。どこの団体が何を支援してくれたーようなことが書かれている。ここはマンダレー郊外でも有名な孤児院らしく、台湾、シンガポール、日本は大阪や九州の団体などが支援してくれていて、この隣の建物にはJICAも入って新しい宿舎を建設していた。また仏教系とだけあって仏教政府ともお墨付き支援金やら色んな待遇があるようだった。


広大な敷地内にはコンピュータールームも整備され、ホットシャワーのボイラーもある。
写真のように昼食を大釜で調理している光景も見させてもらったが野菜に大盛りご飯が食べられるようだった。
これがミャンマー。イスラム系やキリスト系の孤児院や難民キャンプにはこんな施設経済力ない全て仏教と政府側についた人々優位で成り立っている。

頑張って勉強している教室を覗くと可愛い修行僧も犬も一緒にお昼寝している。僕が小学校から大学までよく眠るから先生にチョーク思いっきし投げられたのと変わらない。一緒にするなって(笑)!!



きっと日本の団体が教えてくれたのであろう「幸せなら手を叩こう」を全員で合唱してくれた。

嬉しかった。そして安心した。親と一緒に暮らせない悲しい事情があってここに来たのだけれど、この施設なら少なくとも生きていける。だから安心した。

案内してくれる彼女は次の施設も規模はここまでではないが大きな仏教系に連れて行ってくれるつもりのようだった。ここには僕らは必要ない、もっともっと誰にも目に掛けされない、経済的にも衛生的にも危機に陥っているような施設があるはずだ。そう説明すると、彼女は一箇所思い当たる施設があるという。そこはマンダレーから車で3時間西に行ったメイミョーという町。




案内されたのはキリスト教の教会に併設された孤児院100人程の子供達が暮らしている。先ほどの1500人超えに圧倒された後のこれはすごい静けさ
と思ったら元気よく子供達が遊んでいて囲まれた!

北部のカチン族自治区と政府軍との紛争と貧困によって各地に難民キャンプができたが安全に子供達に教育を受けさせるためにミャンマー第二の都市マンダレーに十数年前に地元キリスト教徒とアメリカの慈善家からの寄付で教会と孤児院が作られた。




そう、ミャンマーの観光地はどこもお坊さんだらけの仏教なイメージがあるけれど、北西部はイスラム、ヒンドゥー、北東部はキリスト教の少数民族が暮らしている。これを仏教中央政府は面白く思わず、昔から軍事力で弾圧して来た。ロヒンギャやカチン族への虐殺、村の焼き討ち、無差別な空爆は今も続いている。



施設を管理している大人は皆カチン族、ディレクターのティンコーさんとその奥さんのカイタンさんから詳しく話を聞いた。
ここは政府からの支援はゼロで、特定の団体からの定期的な寄付などもない。全てキリスト教の彼らだけで寄付を集め合ってなんとか運営している。100人の子供達の食費はなんと一日三食全員分合わせて9ドル(1000円程)。。肉は高価なので週一回土曜日しか食べられない。朝食は米のとぎ汁に少し豆を入れただけのスープを毎朝食べる。穴の空いた服でも大きい子から小さい子へ着まわしている。シャワーはなく大きな水瓶に冷水を溜めたのを洗面器で汲んで体を洗う。標高1500m近い山の中の町、夜間は冷えるがもちろん暖房も扇風機もない。それでも皆助け合って生きている!!毎日神様にお祈りしながら、毎朝毎晩感謝して声を合わせて歌い、聖書を読んで、ちゃんと遅くまで勉強も頑張っている!もう応援せざるにはいられないよ、チェンレイ!!ここにしよう!!



この時の滞在では日本語の授業、中国語の授業、保健衛生の授業、健康チェックの他に写真のようにアルミ缶を改造してアルコールストーブを作ったり、木と針金、ヘアピンでカリンバ(親指ピアノ)などを一緒に作った!



材料費ゼロ!みんなでワイワイ楽しく作ったストーブは・・



アルコールを入れるとこんなに綺麗な炎を上げた!!感動!してわーーーーーーってなった!!



薬局で1L40円ほどで買える消毒用アルコールをほんの少し、30ml程入れるだけで1Lのお湯が沸騰する優れもの!!(さあみんなで作ってみようー!)



そして僕のお馴染み、沖縄で作り方を習ったカリンバ。特に女の子は嬉しそうに調律して綺麗な音を流していた!



トラックを貸し切ってみんな荷台にギューギューになって、色んなところに遠足に行った!釣れなかったけど湖に釣りにも行った!みんなパンツいっちょで泳ぐ泳ぐ、上手上手!!


木の釣り竿と便に糸を巻きつけて釣りをする

実はこの記事を書いているのは2018年の今まさに年が暮れそうな寒いクロアチア。
この時の子供達との出会いからもう7年。
毎年のようにミャンマーに戻ってはみんなに会いに行っている。去年は二回訪れた。


手作りカルタを作って日本語を勉強。カンボジアでやった経験をここでも。
行くまでは、会うまでは何をすべきかなんてわからない
百聞は一見にしかず。事実毎日目の回るような忙しさが待っている。
子供達100人は生まれた時にはそれぞれお父さんお母さんがいた
その両親200人分に代わることができるのか?そんなわけがない

ただ200の仕事を1つでも2つでもやるのか、全く関心も持たず何もしないかの違いは歴然。
たとえ僕ら外から来た一人二人の外国人でも。





この7年間、子供達の成長を楽しみに見ながら色んな思い出を一緒に作って来た。

最初に訪れた時、二段ベッドに敷かれた子供達の毛布やシーツが湿気って汚れてすごいことになっていた。まず5日間程かけてみんなで全部足でフミフミ洗濯して、マットレスも太陽に当ててよく叩いた。よーホコリ出た。最後に洗ったのは半年前だったそう!!育ち盛りの走り回る子供達の布団は重く黒くなっていた。当時旅仲間の看護師とも一緒に訪れたこともあってベッド周りの衛生環境作りと子供達の清潔へ意識向上は無視できなかった。大切!!

もっと社会に存在を広く知ってもらう為に孤児院のブログも開設

また孤児院のロゴSMOCとイラストの入ったTシャツとポロシャツを作成し当時滞在していた中国で大学の講演会ネットで販売、またweiboのフォロワーさん達も個人的にたくさん買いに来てくれて、全て孤児院の運営費に当てた

毎月出演しているNHKラジオの番組で何度かこの孤児院の話をして、聞いてくださった方々からの寄付と友人や家族、元職場の同僚達から集めた寄付で、
新しい男女シャワールームの建設、食料が底を打つ寸前で半年分の米を寄付、文房具・体育スポーツ用品数年分を寄付、自転車6台を修理。

日本から人形劇「桃太郎劇団」を招待して上演していただくと、子供達大はしゃぎ!!

プロジェクターを持参してお祈り後、寝る前にみんなで映画を見たけど必ず消灯時間までに一本終わったことがなかった^^;;

僕らは生まれてこれまで毎年の誕生日はだいたい親に祝ってもらい、小さな頃にもらうプレゼントは嬉しかった。ただ、
誕生日が来てもこの子達にはそれがなかった。だから、
毎月誕生日に当たる子供達全員にプレゼントが渡るよう
「誕生日プレゼント基金」を作り、月一回の集団誕生日会で一人当たり定額の寄付から購入した希望のプレゼントを渡している。これは全額僕が負担^-^




豪華景品をかけた卓球トーナメント戦バドミントントーナメント戦は誰もが燃えた!!

サンタさんの来ないクリスマスなんて辛いよ。
weiboやSNSで呼びかけてクリスマスに合わせて中国や日本からたくさんのクリスマスレターやプレゼントが子供達に届いた。
・・そのお礼に書いた300通以上の手紙が送り終わるのに3ヶ月以上かかったけど!!^-^
ほぼ毎日書いてはどこかの国の郵便局で出してたの覚えてる・・



まだ生まれてこれまで一度も見たことのない子供ばかりで、どうにかして海に連れて行きたかった。でも全員分の遠い海までの移動費と宿や食事代がこれまでにない高額で、また食料危機があった為に緊急度が高い生活の方を優先して海旅行はまだ実現していない!クラウドファンディングも計画段階まで行ったが延期に。


本当みんな仲が良い!!
絶対いつか実行したい。






ささっと書いてしまったけど、この7年間のそれぞれのストーリーはまたいつかこの先の記事で(^-^)

チェーズーティンバーレー(ありがとう)!!

2018年11月18日日曜日

日本と中国が協力し第三国の支援に。


無事に中国のレスキューチームと共にミャンマーのマンダレーに到着!
地震による被災地はここから数十キロ北に移動した場所。

初日はホテルに着いたあと、半々に別れて、ミャンマーの中国大使館の職員とミーティング、残りは待機した。ミーティングはもちろん中国流、豪華な食事をのせた円卓を囲んだ接待が始まる。でもこれがとても重要な意味を持つ。軍事政権から変わったとはいえ、まだ外国人は被災地中心部への立ち入りは禁止されているのだ。
どこかで聞いた事あるな、そう、中国と同じなんだね・・。
そこで大使館を味方につけてミャンマー政府との交渉を進めた。

・・隊長達、ちょっと肩を落として帰って来た。
やはり中心地には行けないようだ。ミャンマーは平常時ですらまだ外国人立ち入り禁止地域があちこちにある。
しかし今回、中心部周辺の被災地域には行ける許可が下りた。さすが、値段交渉始めこういう交渉事には強い。値段交渉もボッタクリも日常生活にない日本人はこの辺に弱い・・。世界一安全な国は、外国に行くと世界一のカモになってしまうのは皮肉な話。


ミャンマー地震6.jpeg
 夜道を歩き廻って安くて美味しそうな店に入る。
カレーを注文したらディップ野菜は食べ放題!
ディップのソースがカニミソとナンプラーを混ぜたような味で、とっても美味しかった(涙)

中国と同じく、こんなにも店員必要かな・・ってくらい見渡す限りウェイターだらけ。中学生くらいの若い男の子も働いている。みんなイケメン!ニコニコの笑顔で、照れながら注文した料理を運んで来てくれる男の子達がとっても可愛い。中国には申し訳ないけど、2年ぶりくらいにレストランでこんなに普通の優しいサービスを受けた。ミャンマーではあちこちで見られる顔に塗る木の根から出来たクリーム「タナカ」も顔に塗ってくれた。なぜかマニキュアまで・・。フレンドリーでとても礼儀正しくて、この時もうすでにミャンマーから離れられない予感がしてしまった。

食事を終えた頃、店の入り口にずっと赤ん坊を抱えて立っている女性に気づいた。食事中ずっとここにいたのだという。この街に住む外国人も時々訪れる地元で人気のレストラン、生活難の方達が集まりやすい。僕は店員に通訳してもらいながら彼女に食事はまだか聞いた。彼女は食べたと返事をし、子どもを強く抱きしめた。子どもの父親は子どもを作ったきり逃げてしまい、消息不明。小さな子がいるから働けず、物乞いをしているという。
僕らはお金はあげられないけど、何か欲しいものがあれば言って下さい。いつもお金しかもらわない彼女はためらっていた。僕と友達は彼女と一緒にスーパーへ行き、彼女が指差した粉ミルクを赤ちゃんに買った。
ミャンマー初日、喜びと切なさ両方を感じた一日だった。


ミャンマー地震7.jpeg 
 二日目、三日目は現地の中国語通訳付きの車に乗り込み、市街地と被災地を往復した。途中、川に寄った時地震により半分落ちた橋を見た。丈夫そうな鉄骨の橋が半分に折れている。余震も毎日続いており、半壊の建物には注意しなければならない。
被災者は特定の場所で支援物資配給されたり政府からの支持を得る。そのうちの一カ所、寺院が管理する広場にこの日は訪れた。中国から持って来た医薬品や応急処置セット、少ないが生活物資などを僧侶に託した。

同じ頃、米などの食料配布も重なり手伝う。僧侶が拡声器でリストの家族の名前を呼んでいく。混乱もなく、順番を待つ人々は落ち着いている。これもまた、今「ミャンマー」に来ているのだということを感じさせる。軍服を着た政府の偉い方達が車に乗って挨拶に来た。笑顔で写真を撮り少し話しただけの外交辞令に終わるが、被災者に向けて挨拶も労いも見られなかったのが何となく腑に落ちなかった。


 ミャンマー地震8.jpeg
トランシーバー、ヘルメットを身につけ救助道具一式持って飛んで来たにも関わらず、政府という壁が高く、思うような活動成果が得られないまま帰国までの時間がせまる。
レスキュー隊とはいえ、それぞれ家庭と仕事がある仲間達、中国からでもできる援助のニーズを最後に調査して、帰国の日を迎えた。


 ミャンマー地震9.jpeg
 せっかく来たのに、必要とされる場所、人々に会い切れていない。団体として動くゆえ国際法規や許可申請などに縛られてしまうのはしかたがない。ではこれまでの僕らしく、個人流で動こうじゃないか。
僕とチェンレイは滞在VISAギリギリまでミャンマーに残ることにした。

 ミャンマー地震10.jpeg
それから三週間、1525人の孤児が暮らす仏教孤児院や、マンダレーから北に数十キロのピン・オー・リンという街にある小さく貧しくも助け合い温かなキリスト教孤児院で過ごすことになるが、そのストーリーはまた次回・・。

 動画:ミャンマー地震支援 56秒(You Tube)
 動画:香港鳳凰TV ドキュメンタリー 一部
新聞:雲南信息報:河原启一郎 "我只是个普通志愿者"
(訳:私はただのボランティアです。)

2018年11月15日木曜日

中国のレスキューチームと共に、ミャンマー北部で起こった地震の支援へ



ミャンマー地震1.jpg


中国雲南省彝良の被災地から昆明に戻った直後、すぐ隣のミャンマー北部で地震があったと知り合いから連絡を受けた。

ミャンマーと言えば2008年夏、サイクロンナルギスにより多くの犠牲が出た数週間後に北部のサガインという村の医療支援に日本のNGO( JAPAN HEART)に加わって訪れていた。突然当時の記憶がよみがえると共に、ミャンマーに行かなければという胸騒ぎがした。

 実は雲南地震二回目の支援からはとても強力なパートナーが一緒にいた。チェンレイ。北京出身の女性、中国トップの大学を卒業後ロンドンでマスターを取得して帰国直後、ネットを通じて僕に連絡をし、以後共に活動している。エチオピアやウクライナでのボランティア経験があり、語学に堪能、好奇心や勇気にも満ちあふれている。政府や警察、メディア、スポンサー等の間に入って通訳もこなしてくれた。彼女がいなかったら成し遂げられなかったことが幾つあるだろう。積み重ねたキャリアを停止してまで僕に賛同してくれた彼女には感謝しきれない。

僕がミャンマーに行きたいと言うと、彼女も行く気満々、早速在昆明ミャンマー大使館の場所確認や現地までの交通や復興情況などを調べ始めた。


  ミャンマー地震2.jpeg
すると同じ頃、ジェット・リーが創設者である中国最大の公益団体《壹基金(イーチジン)》のレスキューチームの隊長達もミャンマー支援に向かう準備をしており、同じ日の午前に昆明のミャンマー大使館にビザ申請をしていた。
その夜、隊長から電話が入り、彼らもミャンマーに行くということをそこで知り、壹基金メンバーとして一緒に行くことになった。
この隊長さんとは、先月北京で彼と僕と医師と三人でTencent Weibo Charity主催のもと義援金を集める為に共同チャリティー講演会をした時以来の仲。
 調べたところ、(当時)まだ中国−ミャンマー間のボーダーは陸路ではビジネス目的以外開放されておらずバスでは国境までしか行けないことがわかった。そんな時に壹基金と一緒に飛び、救援活動ができることになったのは不幸中の幸い。(当時)2年前にアウンサンスーチー政権に変わり民主化したにも関わらず古い軍事体制は残っていた。特に北部のカチン州政府と本部ミャンマー政府との紛争は未だに続いていて毎月死者が出ている。
壹基金は5人。そのうち3人はレスキューチームの隊長。
突き出たビールッ腹、寒いジョークにワハハッの大笑い、とても隊長には見えなかったが数々の災害での救助経験があるプロの人達。

今この日中政情不安の時期に、中国と日本が協力して第三国を助けにいくというこのアクションは今後にも大きな意味を持つと思う。
中国西安に保管してある自転車にはまだまだ戻れそうにない。

 ミャンマービザ取得まであと一日。
壹基金とのミーティングで今後の動きを確認し、装備を整える。

 昆明での宿泊は北京のグローバルタイムスの記者に紹介してもらった友達の大きなマンション。一週間以上泊まらせていただきその後も荷物をしばらく置かせていただいた彼女も元記者で、今はカフェのオーナーさん。

支援物資の薬品などを購入したついでに、昆明にある雲南省最大の巨大市場でLEDのクリスマスライトを大量(計150m程)購入し、カフェの中と外を飾り付けた。超大都市を除いてクリスマスがあまり盛り上がらない中国、クリスマスのライトアップや音楽を聴いてウキウキしてしまうのはグローバル化した日本の血が騒ぐ為だろうか。
 ミャンマー地震3.jpeg
 僕のユニフォームに袖を通しポーズをとる可愛い近所の女の子。
壹基金は半政府干渉であるも様々な公益を行っている。彼らにとって壹基金は憧れの存在、交代交代に帽子やユニフォームを交換して写真を撮っていた。 俳優ジェット・リーが創設者ということ人気の一つ。しかし支持される一番の理由は、他に信頼出来る組織が中国にないことだろう。前回までの記事でも少し書いた赤十字は政府傘下で完全に腐敗しており、国民からの信用はまるで0。NGOが簡単に組織できない中国では他に頼れる団体もなく、災害がある度に義援金は壹基金に集中する。それだけ彼らにかかる期待と責任もまた重いのだが。


 ミャンマー地震4.jpeg

 2008年夏、ミャンマーで死傷者20万人を出す大きなサイクロン(巨大台風)があった。僕が当時ボランティアをしていたミャンマー・サガインという村でも今回の地震の影響があったらしい。喜びも悲しみも、生と死も見てきた思い出深い場所だ。
あの頃は軍事政権下で、目的によっては簡単にビザは取れなかった。特に自然災害や紛争関係になると独裁政権というのは外国に対して扉を狭くする。
国連、各国から支援物資満載の飛行機も首都ヤンゴンにすら入れず、タイのバンコクで足止め、政府が用意した輸送機に移し替えて輸送されて行ったがその行く先は誰も確認できない。その後、被災者に支援物資がちゃんと全て行き渡らず未開封のまま闇市で売られていたのも見た・・。
スーチー政権に変わり、この国の何が変わったかというのは話が長くなるので今回は端折る。

なぜ当時入国できたかというと、NGO代表吉岡医師が長年かけて築き上げて来たミャンマー政府との関係と、人々との信頼があったからだ。団体が全て手続きをしてくれたが、聞いたら18カ所の許可証が必要だったという。
吉岡医師、NHK「情熱大陸」など数々の番組でもお目にかけた。僕がミャンマーから帰国した一週間後にもNHKが入っており、その後僕以外の仲間が皆映っていたドキュメンタリーを少し残念な気持ちで見た覚えがある。


ミャンマー地震5.jpeg 
 さて今回無事にスムーズに3日間でミャンマービザがおり、中国の公益団体壹基金と共に昆明からミャンマー第二の都市マンダレーに飛んだ。肌寒い雲南省から少し着込んで来て、さらにそれぞれに大きなバックパックを背負っているのでマンダレーの空港に着いたとたん、滝のような汗。入国手続きを待つ間に皆一斉に脱ぎ始めた。飛び出したビールッ腹、残念ながら良い光景ではない。伝統衣装ロンジーをまとった空港職員達が皆笑っていた。なんだか笑顔が温かい。ミャンマーに来たぞというワクワクした感覚がこのとき沸き上がって来た。

今後五日間は彼らと共に行動させてもらう。
そのあとは情況によって2008年に参加させていただいた日本のNGOと共に動く予定。

2012年12月10日月曜日

もっと深い山の奥で見つけた笑顔と、アジアの闇、中国の闇。

 さあ小学校へ支援物資を配布し終えた!次にアクセスの不便な村々を回る!
協力して頂いているNISSAN自動車(日産中国)から提供された車二台にはまだまだ荷物が積んである。僕らが北京や広州などの大都市から集め送られて来た支援物資。
この村を去ると聞いて村の人たちが出て来て見送ってくれた。

 子供達もたくさん出て来たぞー!本当いい笑顔!!
首のリボンは中国の学生の印だね。暖かくしていっぱい勉強するんだぞ!



サッカーボール、バドミントン、縄跳びなど体育用具と一学年分のカラーペンも寄付した。これでいっぱい机の裏に落書きと思い出を残すんだよ!僕のようにね(笑



道の悪いこと悪いこと・・ゆっくり進んでると追いかけて来た子供達にすぐ追いつかれちゃう!「ウルトラマン!」とか言いながら踊ってる男の子が可愛いかった(笑
この村やけに子供、多いなー!!



この頃まだ一人っ子政策が続いていたんだけれど、この政策には例外がある。
農村や少数民族の家族、親が医師だったりすると二人まで子供を持てるとか。
「黒子」って聞いたことあるだろうか。
原則二人以上の子供を産むと高額の罰金を取られるが現実子供は生まれてくるもの・・そんな大金払えない・・農家にはもっと手が必要・・そして戸籍を登録せずに家族の中で隠れて育てられる子供を俗に黒子(ヘイズゥ)と呼ぶ。

中国南部、特に四川、雲南、広西、貴州など比較的貧しい地域に多く、その数何百万人から何千人と言われている。

実際それでも農村は嫁が足りず女の子が欲しい、労働力が足りず男の子がもっと欲しい。その為中国南部と国境を接するミャンマー、ラオス、ベトナムからバイヤーに誘拐され中国に強制的に奴隷として送られてくる東南アジアの子供達も未だに多い。悲しいし、許せない!

これがなかなか普段知ることが出来ないアジアの闇。


さて一団は雲南省のさらにさらに!深い山の中まで入っていく!
4輪駆動の日産車の前でしっかり車を見張っているのはケンコバ似の日産中国の社員(笑)
笑わないと顔が怖いけどすごくいい人!
いつもタバコを勧めてくる、吸わないってば!って言ってるのに。。




頭のハンパなく良い相方チェンレイと北京から来てくれたシティーボーイズ達はしっかりミーティングで作成したリスト通り平等に配布できるように目を配っている。全部中国語でやりとりしている中時々ちゃんと英語で今の状況を伝えてくれるのが嬉しい(涙)もう僕いなくても良いんじゃないのかってくらいみんなすごい頑張ってくれてる。



おじさん、とても嬉しそう!
彼らボランティアの若者はみんな仕事や学校から休みを貰って来てくれた。
わざわざ2000kmも離れた北京から・・本当優しさの塊でしかない!




あ、ほら僕だって頑張っているよ♪



チェンレイが子供にお菓子をあげようとしたら・・


逃げられた!!(笑)




おばあちゃんと孫で少数民族の衣装を着て着た!

可愛すぎる! おばあちゃんの髪型真似したい! いやおじいちゃんかも!!



一気に標高千メートル程上がり、下がってはまた上がるの繰り返しで車も疲れているみたい。ケンコバがいるから全部任せちゃう!頼もしい!


 子供服もいっぱいあるよ〜!
めっちゃジャケット着込んでる人たちと上のお母さんみたいに薄いTシャツの人といるけど、これ絶対寒いでしょー!



背中に担いで来たカゴが寄付の服でいっぱいになった!
このカゴ昔昔長野のおばあちゃんちのリンゴ畑で見たことある!!
今もあるのかな・・



民族の衣装も、カゴも家も、全て手作り。


ほら、日本人も一人頑張っているよー!(汗)



だからお母さん、寒いでしょ!!
持ってるジャケット着よう!!

でも素敵な笑顔!




父さんカゴを忘れたのかい?笑

この規格が同じ耳まで覆える黒い帽子、実は全部新品!
友人の帽子の会社が寄付にって、数百個送ってくれた!本当有難い。



なんか恥ずかしいけど僕の名言:愛心無国界(国境のない優しさ)
にちなんで愛心無省界(県境のない優しさ)
と描いて見たけど。

この赤ん坊!激しいドヤ顔!!! 



平等に渡ったことを確認して次の村へ行こうとしていると・・


村のおばちゃんがアッツアツのゆで玉子を作って持って来てくれた!!!
きっと家の鶏が産んだんだろうなー!お腹空いていた僕は速攻で丸々口に放り込んだら、

爆笑しながら「そんな急いで、喉つまるでー!!」
ってどつかれた笑
やっぱりその後むせて口から飛び出した・・・泣



助け合いって相手を笑顔にするけど、こっちが笑顔じゃなきゃ何を受けとたって相手も笑顔になんかならない。今目の前に見えているものって必ずしも良いものだけじゃない。しょっちゅう悲しい気持ちになるし、怒りが込み上げてくることだってある。それってつまりは不平等から来るもの。不平等をなくすのは本当に難しい。だけど不平等な世の中の中で平等なものをもっと見つけて増やしていくことはできる。例えば笑顔。君より僕の笑顔の方が優れているなんてことないんだから。