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2012年10月5日金曜日

−黄色い手袋−




先週、雲南省の被災地から戻ったばかりの同じNGOの医師とオンライン共同チャリティー講演会を開く為の打ち合わせをしたとき。彼が嬉しそうに話しながら見せてくれた写真には黄色い手袋と綺麗な青い長靴を履いているボランティア達の姿だった。

やむ終えない取り引きで被災地彝良を去り、昆明に戻った後、連休前に入る新たなボランティア達の為に送った瓦礫撤去・泥かき用の作業道具だった。
彼もそれを使ってくれたのだという。

そして忘れられぬ10/4、新たな土砂崩れにより小学校が丸ごと埋まり、18人の子供達が亡くなってしまった悲劇の日。軍が救助にあたったが、手袋もなく素手で作業をしていたという。その時、僕が贈ったゴム手袋が配られ捜索に使われたのだという。悲しいニュースが連日続いていたけど。なんか少し明るい気持ちになれた、それ聞いたとき。
その場にいなくても、出来る支援てたくさんあるんだよね。

“ボランティアを支援するということは被災者を支援するという事”



亡くなられた方のお冥福をお祈り致します。

残されたご家族の皆様、全力でサポートします。



【新聞】:

南方都市:只要还被需要,我就呆在中国

http://gcontent.oeeee.com/8/3f/83fa5a432ae55c25/Blog/530/4ffc5f.html

facebook: (keiichiro kawahara,
河原啓一郎 http://www.facebook.com/coucou.kei )


2012年9月28日金曜日

ー薬を届けた少数民族の村ー



ストローと割り箸で何かを作って遊んでいる男の子達。
画用紙に色鉛筆で絵を書いて遊んでいる女の子達。
車で2時間程走った山の中にも、都会と変わらぬ子供達の笑顔があった。
しかし彼らが数日前まで住んでいた村は土砂崩れと地震で壊滅。中には家族を失った子供達もいる。

臨時に設置されたテント村。
まさか一生のうちで自分が仮設テントで寝泊まりをし、机も教科書もない仮設テントで作られた小学校で勉強をするとは思っていなかっただろう。

「薬」はこの村に届ける事にした。


早朝、薬の名前と数をボランティアスタッフと共に紙に書き出す。
多少箱に凹みがあったものの、1週間大切に守りながら運んできた薬はほとんど原型のままだった。計15種類、品名で分けると36種類。他に消毒や包帯、絆創膏なども山ほど入っている。ただ、日本語教師の先生からいただいた日本の薬は表記も日本語で、寄付としては難しいという事で、僕が預かる事にした。



テント村の仮設診療所の前で、駐在していた現地ボランティアのゴウさんに薬を受け渡す。今は離れてしまったが、彼も震災直後からこの地に来てボランティアを続けていた優しい青年だ。薬を管理している彼の元には常にお年寄りや子供達が薬を求めて集まってくる。すでに、いわゆる一般薬が貯蓄されていたが、これもこの村の避難民200人以上をカバーするには足りず、供給に追いつかず減っていく一方だと言う。


山岳被災地の医療にはまだまだ頭の痛い問題が山済みだ。
病は軽いうちならば薬で治せるかもしれないが、もし重篤なった場合診てもらえる大きな病院は近辺になく、都会まで出る足やお金がない。本当にいざとなったときは地元政府が車を出して病院まで連れて行くことになるが、彼らは救命士でもなければ24時間対応できるわけでもない。

しかし、ないものはない。限られたリソースの中で、人々が知恵を出し合い助け合いながら行きていくしかないのだ。

ただ、都会から離れた山岳地帯で暮らす人々というのは、僕ら便利な都会で暮らす人間と違う素晴らしい生きる知恵を持っている。それは祖先から代々受け継がれ、自然と人間が上手に付き合ってきた中で培われた、まさに生き延びる為の技術なのだろう。もし風邪を引いたり怪我をした場合、おばあちゃんが引き出しから取り出したるは何やら怪しげな薬草や乾燥した木の実。これが本当のTCM(伝統的中国漢方薬)だ。考えてみれば、もともとこの場所には(震災前から)化学薬品や高度医療機器などないのだ。


話がそれるが、雲南省ではない河北省の田舎での話。
友達がまだ幼かった頃、突然体側に原因不明な真っ赤な湿疹ができて、とても痒くてたまらなかったという。母親が医者に見せてもわからないと言うばかり。そこでここぞとばかりに登場したのは曾祖母(ひいおばあちゃん)。友達曰く、彼女は「魔女」だと・・。
彼女は友達をベッドに横たわらせ、何かモゴモゴと唱え、白酒(酒度70°)を口に含み、口元に火のついたマッチを持って来るなり一気にその白酒を霧のように噴射した。たちまちその霧は炎に変わり、その炎は友達の体を包んだ。
その直後、あのヒドイ痒みはどこへやら・・。
その翌日には湿疹も薄くなりやがて治癒したのだという。

ウン、魔女だ。


雲南省、特に少数民族の村にも僕らには理解し難い摩訶不思議な話がたくさんあるようだ。地元の人からしか聞けない話。そういう話はまたいつか時間が出来たら書いていこうかな♪

  

僕らがこの村を去るとき、子供達がお礼にと、唄を歌ってくれた。
唄の歌詞の意味はわからなかったけれど、最高の笑顔と可愛い手の振り付けに感動。涙が出そうになった。
実は歌詞の意味がわからないのは僕と遠藤さんだけではなかった。あとで聞いた話、この子供達もわからないのだという。メロディーだけで歌っているのだと。
教育水準の問題か。いや、思えば僕だって小学校のとき歌った歌の歌詞なんてほとんど理解していなかった。音楽の先生に歌えといわれてパッヘルベルのカノンを歌っていたが歌詞の意味などわからないし気にしてもいなかった。この子達も同じなのだろうか。彼ら独自の言語と、普通語(北京語)は全く異なるゆえ、彼らからすれば他の中国人の話す言葉や、この歌の歌詞は外国語のようなものだ。

動画YouTube

http://www.youtube.com/watch?v=Op5z8jZUWJg
Youku
http://v.youku.com/v_show/id_XNDU1NDgxNjgw.html



仮設テント小学校。教室で子供達に手品を披露した。
子供達が驚き喜ぶ顔が見れて少しほっとした。
本当はゲームしたり、テレビ見たり、もっと楽しいことして、お母さんに怒られるくらいふざけ合って笑いころげてもいい年頃なのに、不幸にも起こった災害は彼ら子供達の生活をも変えてしまった。

動画Youtube

Youku
http://v.youku.com/v_show/id_XNDU1NTA3NzM2.html

被災地の子供達にとって震災や洪水により受けた傷は体よりも心の傷の方が深く、薬では治せないケアが必要だ。先日、云南彝良震区にある学校の先生から知り合いを通じて連絡が入り、子供達の心理カウンセリングをお願いされた。今ネットを通じて中国中に呼びかけ、専門知識のある方の協力をお願いしたところ、数名の志願者からの応募が来た。

子供達の笑顔がない村なんて、なんか寂しいよ。



そして昨日、残念な情報を聞いた。
仮設の小学校の運営が厳しくなり、廃校になってしまったそうだ。十分な教育物資と、教員の不足が原因。今子供達は山道を片道1時間近く歩き、3つの学校に別れて通っている。

相変わらず僕を心配してか、監視か、ついてくる政府/警察達。この日は22人。
震災発生直後に訪れた温家宝首相依頼の厳重警備らしい。
その後来たジャッキーチェンは自家用ジェトでパッと来てすぐパッと消えてしまった。

もう長く一緒にい過ぎて、仲良しのお友達になっちゃったね。
一緒にいるからには、一緒に長靴履いて作業してもらいますよ♪

(上記内容は2週間前のもの)

★ラジオのお知らせ★
SBC信越放送「ともラジ」
1013日(sat.13:00~14:55
僕は14:30頃、中国からの中継(録音)で出演します。
現地から生の情報をお伝えします。
(毎月出演)
http://sbc21.co.jp/radio/tomoraji/


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【北京】今日はglobal times ,lonely planet,南方都市 3つの取材で先ほど終わったところ・・。来週以降はもっと忙しくなりそう。お金も時間もないし、大丈夫か僕。。

2012年9月27日木曜日

ー届かぬ声ー




実はYiliangに入る前に、被害が大きかった場所の一つ、昭通区を訪れていた。
昭通市で軟禁状態の時に、
「路線バスも出ているんだ。いい加減被災地に行かせて欲しい。」
でなければ明日朝にでもホテルから逃げるくらいの気持ちでいた。
結果僕のしつこさに政府も折れ、車3台人を満載して、昭陽に向かう。
道中、車内で日本のラジオスタジオから電話がかかってきたのを覚えている。お尻が10cm浮く程のでこぼこ道をひたすら進む大変な時に、一体なんだ。毎月一回の収録が今日だった事をすっかり忘れてしまっていた。しかし、おかげで臨場感がある実況ができ、これまでで一番レポーターらしい話が出来たような気がする。車内のお偉いさん達は日本語がわからず、まさか日本のメディアと話していたとは思っていないだろう。


中国の被災地支援は日本のそれとは少し異なる部分を見つけた。
まずこちらでは被災者の“声”が気の毒なくらい、世間に届かない。例えば政府の支援が届かなかったり、足りない場合などは意見・新たなニーズとして上がり、追加支援などを容易に依頼できる。復興のフェーズが上がっていくにつれて変容するにニーズに対応しながらそれなりの継続支援はなされているのが日本だ。
しかし社会体制上、政府への不満や意見を言う事が困難な中国は、たとえ支援が足りなかったとしてもなかなか大きな声を上げる事ができない。もし楯突いたりするものなら恐喝され今後の継続支援や義援金(別に深刻な問題あり)に悪い影響が出てしまう。
震災支援で世間の目と一般のボランティアの人手を必要としているのは始めの数日の危険な人命救助のフェーズを除いてはその後長期的に続くはずだ。なのに震災から数日でボランティアを中止させるというその考えが理解できない。もちろんやむを得ず去ったボランティアも、残った団体も理解に苦しんでいる。



なぜそんな酷なことを平気でできるのか。理由がある。
震災とは国にとって負の出来事で、11月のリーダーが変わる代表選挙にも不都合なことなのだ。テレビをつければ、国がいかに被災地復興に力を注いでいるのかということを、これでもかというくらい華やかな映像と音楽で編集し、繰り返し繰り返し流している。あたかも、“復興は順調。震災は過去のもの”そう言っているようだ。だまされるのは狭い見識のステレオタイプの人間に限らない。新聞テレビをそのまま情報としてとらえて信じ質素に暮らす人々の目にもそう映ってしまう。


市街地から車で一時間ほど山の小道を走り抜け、仮設テント村に入る。
40張程のテントに200人近くが暮らしている。
足下はぬかるみ、長靴でなければ靴は泥に埋まってしまうほどだ。
見上げれば断崖絶壁の山々に囲まれ、地滑りの跡があちこちに見える。今まさに土砂崩れがあったのではないかとも思えるほど未だに湿った土砂がゆっくりと動いている箇所もあり所々通行止めになっていた。

動画>>you tube

http://www.youtube.com/watch?v=zD6N6YHkiL4&list=UUjNB-I3R643_-O1T_QS6Hqg&index=2&feature=plcp


「寒くないですか。何か不便なことや必要なものはありますか。」

あるご高齢の夫婦に話を聞いてみた。

「いやあ、ないね。満足しているよ。」

本当だろうか。その暗い表情と、周りを気にする落ち着かない目線、寒さにこすり合わせるしわしわの彼らの手を見るとそうは思えない。

ボランティアに化けて一緒に来たプロの北京の有名ジャーナリストが後で人が少なくなった時に再度聞き返した。

「本当に必要なものはない??」

その彼女の問いに老夫婦は、

「う、うちは足りてるけど、他の家のは色んな物が足りないし、朝晩は寒いみたいだよ・・。」

おそらくそれが彼らが本当に言いたかったことだろう。ジャーナリストも確信した。しかしこれだけ多く政府の人間がいれば被災者は本当の心の内を明かす事ができない。本来ニーズを調査し、要望に対しフィードバック支援をする立場にいなければならない人間達が恐れられている。被災者(国民)に蓄積されていく不満は結局あとで自分たちに返って来ることは考えてのことなのだろうか。このツケは大きいぞ。


押し殺され、届かぬ被災者の“声”。
僕だからできるボランティアの方向性がだんだん見えて来た。

続く・・


http://www.infzm.com/content/81166

日本青年中国 遭“袭击
(襲われた時に助けを求めたメディア。蒼井空の後の特集・・。)





  

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