2018年11月18日日曜日

日本と中国が協力し第三国の支援に。


無事に中国のレスキューチームと共にミャンマーのマンダレーに到着!
地震による被災地はここから数十キロ北に移動した場所。

初日はホテルに着いたあと、半々に別れて、ミャンマーの中国大使館の職員とミーティング、残りは待機した。ミーティングはもちろん中国流、豪華な食事をのせた円卓を囲んだ接待が始まる。でもこれがとても重要な意味を持つ。軍事政権から変わったとはいえ、まだ外国人は被災地中心部への立ち入りは禁止されているのだ。
どこかで聞いた事あるな、そう、中国と同じなんだね・・。
そこで大使館を味方につけてミャンマー政府との交渉を進めた。

・・隊長達、ちょっと肩を落として帰って来た。
やはり中心地には行けないようだ。ミャンマーは平常時ですらまだ外国人立ち入り禁止地域があちこちにある。
しかし今回、中心部周辺の被災地域には行ける許可が下りた。さすが、値段交渉始めこういう交渉事には強い。値段交渉もボッタクリも日常生活にない日本人はこの辺に弱い・・。世界一安全な国は、外国に行くと世界一のカモになってしまうのは皮肉な話。


ミャンマー地震6.jpeg
 夜道を歩き廻って安くて美味しそうな店に入る。
カレーを注文したらディップ野菜は食べ放題!
ディップのソースがカニミソとナンプラーを混ぜたような味で、とっても美味しかった(涙)

中国と同じく、こんなにも店員必要かな・・ってくらい見渡す限りウェイターだらけ。中学生くらいの若い男の子も働いている。みんなイケメン!ニコニコの笑顔で、照れながら注文した料理を運んで来てくれる男の子達がとっても可愛い。中国には申し訳ないけど、2年ぶりくらいにレストランでこんなに普通の優しいサービスを受けた。ミャンマーではあちこちで見られる顔に塗る木の根から出来たクリーム「タナカ」も顔に塗ってくれた。なぜかマニキュアまで・・。フレンドリーでとても礼儀正しくて、この時もうすでにミャンマーから離れられない予感がしてしまった。

食事を終えた頃、店の入り口にずっと赤ん坊を抱えて立っている女性に気づいた。食事中ずっとここにいたのだという。この街に住む外国人も時々訪れる地元で人気のレストラン、生活難の方達が集まりやすい。僕は店員に通訳してもらいながら彼女に食事はまだか聞いた。彼女は食べたと返事をし、子どもを強く抱きしめた。子どもの父親は子どもを作ったきり逃げてしまい、消息不明。小さな子がいるから働けず、物乞いをしているという。
僕らはお金はあげられないけど、何か欲しいものがあれば言って下さい。いつもお金しかもらわない彼女はためらっていた。僕と友達は彼女と一緒にスーパーへ行き、彼女が指差した粉ミルクを赤ちゃんに買った。
ミャンマー初日、喜びと切なさ両方を感じた一日だった。


ミャンマー地震7.jpeg 
 二日目、三日目は現地の中国語通訳付きの車に乗り込み、市街地と被災地を往復した。途中、川に寄った時地震により半分落ちた橋を見た。丈夫そうな鉄骨の橋が半分に折れている。余震も毎日続いており、半壊の建物には注意しなければならない。
被災者は特定の場所で支援物資配給されたり政府からの支持を得る。そのうちの一カ所、寺院が管理する広場にこの日は訪れた。中国から持って来た医薬品や応急処置セット、少ないが生活物資などを僧侶に託した。

同じ頃、米などの食料配布も重なり手伝う。僧侶が拡声器でリストの家族の名前を呼んでいく。混乱もなく、順番を待つ人々は落ち着いている。これもまた、今「ミャンマー」に来ているのだということを感じさせる。軍服を着た政府の偉い方達が車に乗って挨拶に来た。笑顔で写真を撮り少し話しただけの外交辞令に終わるが、被災者に向けて挨拶も労いも見られなかったのが何となく腑に落ちなかった。


 ミャンマー地震8.jpeg
トランシーバー、ヘルメットを身につけ救助道具一式持って飛んで来たにも関わらず、政府という壁が高く、思うような活動成果が得られないまま帰国までの時間がせまる。
レスキュー隊とはいえ、それぞれ家庭と仕事がある仲間達、中国からでもできる援助のニーズを最後に調査して、帰国の日を迎えた。


 ミャンマー地震9.jpeg
 せっかく来たのに、必要とされる場所、人々に会い切れていない。団体として動くゆえ国際法規や許可申請などに縛られてしまうのはしかたがない。ではこれまでの僕らしく、個人流で動こうじゃないか。
僕とチェンレイは滞在VISAギリギリまでミャンマーに残ることにした。

 ミャンマー地震10.jpeg
それから三週間、1525人の孤児が暮らす仏教孤児院や、マンダレーから北に数十キロのピン・オー・リンという街にある小さく貧しくも助け合い温かなキリスト教孤児院で過ごすことになるが、そのストーリーはまた次回・・。

 動画:ミャンマー地震支援 56秒(You Tube)
 動画:香港鳳凰TV ドキュメンタリー 一部
新聞:雲南信息報:河原启一郎 "我只是个普通志愿者"
(訳:私はただのボランティアです。)

2018年11月15日木曜日

中国のレスキューチームと共に、ミャンマー北部で起こった地震の支援へ



ミャンマー地震1.jpg


中国雲南省彝良の被災地から昆明に戻った直後、すぐ隣のミャンマー北部で地震があったと知り合いから連絡を受けた。

ミャンマーと言えば2008年夏、サイクロンナルギスにより多くの犠牲が出た数週間後に北部のサガインという村の医療支援に日本のNGO( JAPAN HEART)に加わって訪れていた。突然当時の記憶がよみがえると共に、ミャンマーに行かなければという胸騒ぎがした。

 実は雲南地震二回目の支援からはとても強力なパートナーが一緒にいた。チェンレイ。北京出身の女性、中国トップの大学を卒業後ロンドンでマスターを取得して帰国直後、ネットを通じて僕に連絡をし、以後共に活動している。エチオピアやウクライナでのボランティア経験があり、語学に堪能、好奇心や勇気にも満ちあふれている。政府や警察、メディア、スポンサー等の間に入って通訳もこなしてくれた。彼女がいなかったら成し遂げられなかったことが幾つあるだろう。積み重ねたキャリアを停止してまで僕に賛同してくれた彼女には感謝しきれない。

僕がミャンマーに行きたいと言うと、彼女も行く気満々、早速在昆明ミャンマー大使館の場所確認や現地までの交通や復興情況などを調べ始めた。


  ミャンマー地震2.jpeg
すると同じ頃、ジェット・リーが創設者である中国最大の公益団体《壹基金(イーチジン)》のレスキューチームの隊長達もミャンマー支援に向かう準備をしており、同じ日の午前に昆明のミャンマー大使館にビザ申請をしていた。
その夜、隊長から電話が入り、彼らもミャンマーに行くということをそこで知り、壹基金メンバーとして一緒に行くことになった。
この隊長さんとは、先月北京で彼と僕と医師と三人でTencent Weibo Charity主催のもと義援金を集める為に共同チャリティー講演会をした時以来の仲。
 調べたところ、(当時)まだ中国−ミャンマー間のボーダーは陸路ではビジネス目的以外開放されておらずバスでは国境までしか行けないことがわかった。そんな時に壹基金と一緒に飛び、救援活動ができることになったのは不幸中の幸い。(当時)2年前にアウンサンスーチー政権に変わり民主化したにも関わらず古い軍事体制は残っていた。特に北部のカチン州政府と本部ミャンマー政府との紛争は未だに続いていて毎月死者が出ている。
壹基金は5人。そのうち3人はレスキューチームの隊長。
突き出たビールッ腹、寒いジョークにワハハッの大笑い、とても隊長には見えなかったが数々の災害での救助経験があるプロの人達。

今この日中政情不安の時期に、中国と日本が協力して第三国を助けにいくというこのアクションは今後にも大きな意味を持つと思う。
中国西安に保管してある自転車にはまだまだ戻れそうにない。

 ミャンマービザ取得まであと一日。
壹基金とのミーティングで今後の動きを確認し、装備を整える。

 昆明での宿泊は北京のグローバルタイムスの記者に紹介してもらった友達の大きなマンション。一週間以上泊まらせていただきその後も荷物をしばらく置かせていただいた彼女も元記者で、今はカフェのオーナーさん。

支援物資の薬品などを購入したついでに、昆明にある雲南省最大の巨大市場でLEDのクリスマスライトを大量(計150m程)購入し、カフェの中と外を飾り付けた。超大都市を除いてクリスマスがあまり盛り上がらない中国、クリスマスのライトアップや音楽を聴いてウキウキしてしまうのはグローバル化した日本の血が騒ぐ為だろうか。
 ミャンマー地震3.jpeg
 僕のユニフォームに袖を通しポーズをとる可愛い近所の女の子。
壹基金は半政府干渉であるも様々な公益を行っている。彼らにとって壹基金は憧れの存在、交代交代に帽子やユニフォームを交換して写真を撮っていた。 俳優ジェット・リーが創設者ということ人気の一つ。しかし支持される一番の理由は、他に信頼出来る組織が中国にないことだろう。前回までの記事でも少し書いた赤十字は政府傘下で完全に腐敗しており、国民からの信用はまるで0。NGOが簡単に組織できない中国では他に頼れる団体もなく、災害がある度に義援金は壹基金に集中する。それだけ彼らにかかる期待と責任もまた重いのだが。


 ミャンマー地震4.jpeg

 2008年夏、ミャンマーで死傷者20万人を出す大きなサイクロン(巨大台風)があった。僕が当時ボランティアをしていたミャンマー・サガインという村でも今回の地震の影響があったらしい。喜びも悲しみも、生と死も見てきた思い出深い場所だ。
あの頃は軍事政権下で、目的によっては簡単にビザは取れなかった。特に自然災害や紛争関係になると独裁政権というのは外国に対して扉を狭くする。
国連、各国から支援物資満載の飛行機も首都ヤンゴンにすら入れず、タイのバンコクで足止め、政府が用意した輸送機に移し替えて輸送されて行ったがその行く先は誰も確認できない。その後、被災者に支援物資がちゃんと全て行き渡らず未開封のまま闇市で売られていたのも見た・・。
スーチー政権に変わり、この国の何が変わったかというのは話が長くなるので今回は端折る。

なぜ当時入国できたかというと、NGO代表吉岡医師が長年かけて築き上げて来たミャンマー政府との関係と、人々との信頼があったからだ。団体が全て手続きをしてくれたが、聞いたら18カ所の許可証が必要だったという。
吉岡医師、NHK「情熱大陸」など数々の番組でもお目にかけた。僕がミャンマーから帰国した一週間後にもNHKが入っており、その後僕以外の仲間が皆映っていたドキュメンタリーを少し残念な気持ちで見た覚えがある。


ミャンマー地震5.jpeg 
 さて今回無事にスムーズに3日間でミャンマービザがおり、中国の公益団体壹基金と共に昆明からミャンマー第二の都市マンダレーに飛んだ。肌寒い雲南省から少し着込んで来て、さらにそれぞれに大きなバックパックを背負っているのでマンダレーの空港に着いたとたん、滝のような汗。入国手続きを待つ間に皆一斉に脱ぎ始めた。飛び出したビールッ腹、残念ながら良い光景ではない。伝統衣装ロンジーをまとった空港職員達が皆笑っていた。なんだか笑顔が温かい。ミャンマーに来たぞというワクワクした感覚がこのとき沸き上がって来た。

今後五日間は彼らと共に行動させてもらう。
そのあとは情況によって2008年に参加させていただいた日本のNGOと共に動く予定。